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新しいメダカを投入

そういえば週末に新しいメダカをお迎えに行ってきました。

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青メダカ系をこれまで育てたことが無かった事もあり、今回は「ブルースターダスト」をお迎えしてみました。


この水槽は前回水を失敗して赤系メダカを落としてしまった因縁の水槽でもあり、水を改善して改めて飼育開始です。
ここ2年ほど、メダカの水質調整や水合わせに失敗する事が無かったのですが、外からもらってきた個体はやはり慎重にならないといけないですね。自宅で孵したメダカ達はよほど乱暴に扱っても滅多なことが起こらないので油断していました。
このメダカ達はいつもより慎重に1日半かけて水合わせをした上で水槽に投入しています。


BLUESTARDUST2_20200706.jpg

写真技術の問題であまりキラキラしていませんが、照明が反射して綺麗なんです。

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テーマ:淡水魚 - ジャンル:ペット

「独立混成第55旅団戦記(補記) 独立歩兵第364大隊の戦い」

以前、ホームページの記事として「独立混成第55旅団戦記」をまとめた事があります。
当時はまだまだ知識も調べ方も足りず、今読み返すと赤面物の内容ですが、何人もの方に記事について言及頂き大変有難い思いを感じておりました。しかし、いつか修正したいと思っている部分もございます。


独立混成第55旅団は3個歩兵大隊で編成されています。独立歩兵第363大隊364大隊365大隊の3個大隊です。
このうち、旅団本隊としてスールー諸島の「ホロ島」に派遣された363大隊365大隊については当時言及していますが、ホロ島に派遣されず別の動きをした独立歩兵第364大隊については記述をしませんでした。
しかしながら、この364大隊もレイテ島に投入されて、激しい戦闘を繰り広げた上で玉砕しています。この大隊についてまとめなければ独立混成第55旅団を全て記載した事にはならないと考え、今回別記事ではありますが大隊の戦いをまとめてみました。
この大隊は生還者がとても少なく、なるべく記録、記述に基づいて記載しておりますが、幾つか推測を踏まえて記述している部分もございます(特にレイテ戦のピナ山撤退後)。その点、ご容赦いただければと思います。





1.独立歩兵第364大隊の編成とセブ移駐まで

1944年7月3月、門司港からマニラに向けて「モマ01船団」が出港しました。
出港後は連日の対潜監視、退船訓練を繰り返しましたが、7月12日朝に日蘭丸(6503トン、南洋海運)が米潜の攻撃を受け2本の魚雷が命中して沈没しました。日蘭丸にはマニラで編成される予定の新設兵団の編成要員が乗船していましたが、将兵1238名が戦死しています。その外の船はルソン島北端のアパリ港に避泊後、7月15日にマニラに到着しました。
このうち東山丸(8666総トン、大阪商船)には仮編独立歩兵第364大隊が乗船していました。


6月15日に発令された軍令陸甲63号において大阪師管区内の和歌山で仮編成された独立歩兵第364大隊は、魔のバシー海峡を無事に突破し、7月20日にマニラにおいて編成を完結、正式に独立混成第55旅団の指揮下に入りました。
編成表上は大隊長以下997名、自動車はなく、馬匹20頭となっています。大隊長は坪川精作大尉が任命されました。
編成完結後、旅団の各部隊はルソン島各地の警備任務に従事します。ルソン島警備時期の独立歩兵第364大隊の詳細は不明ですが、旅団に所属されていた方の手記によると旅団は応召兵が多く練度が高い部隊とは言えませんでした。


1944年8月に入り、旅団はルソン島からセブ島への前進が命じられます。元々、中南部フィリピンの防御強化の為に編成された兵団なので、予定通りの動きとなります。
8月2日の旅団砲兵隊、工兵隊、通信隊のマニラ出港を端緒とし、旅団の各部隊はセブ島へ移動を実施します。
独立混成第364大隊のマニラ出港は、9月8日と伝わります。ただ、他の2個大隊より先行してセブ島に上陸している事は確かな為、もう少し早い段階でセブ島に移動していた可能性も捨てきれません。
9月8日の記述が正しいとすると、9月10日にセブ島に上陸、現地の警備とセブ港の貨物整理に動員されていました。



2.セブ大空襲と旅団本隊からの分離

マリアナ沖海戦後フィリピンは米機動部隊の空襲を受けるようになりました。次の攻略目標であるフィリピンの日本軍の戦力を叩く為です。7月に米艦載機の初空襲がありマニラや近郊の航空基地が大損害を受けましたが、続いて中南部の日本軍拠点攻撃の為に再び艦載機が来襲しました。9月12日のセブ空襲がこれに当たります。

9月12日の米機動部隊によるセブ空襲では、マニラを出港しセブに向かっていた旅団所属の独立歩兵第363大隊365大隊が乗船した慶山丸(2091トン/朝鮮郵船)が撃沈され、乗船部隊のうち79名が戦死しました。残った将兵は泳いでセブ島に到着し、徒歩行軍でリロアンに向かいましたが、装備を全て喪失した為、リロアンの南方軍貨物廠にて装備を再受領しています。


一方、既にセブに上陸していた独立歩兵第364大隊はセブ警備任務についていました。独立混成第55旅団の先着部隊(司令部、364大隊、砲兵隊、工兵隊、通信隊)は兵站宿舎となっていたセブのサンカルロス大学に駐留しています。駐留時は校庭に機関銃を出して防空陣地を構築していました。
この日の空襲では、兵站宿舎に直撃弾を受けて旅団では多数の死傷者を出しています。コンクリート製の校舎が崩れて逃げ遅れた将兵が多数下敷きになり犠牲者を増やしました。第364大隊も坪川大隊長が負傷し、士官多数が死傷する大損害を受けました。
この空襲(翌9月13日にも再度空襲がありました)による旅団の負傷者はセブ島の軍病院(南方第14陸軍病院)に収容されましたが、回復してもホロ島に移駐した旅団に復帰する術もなく、現地で補充兵として他部隊に編入されレイテ島やセブ島で戦い、殆どが戦死しています。


大隊長以下多数が死傷した独立歩兵第364大隊は、空襲後に部隊の再整理を実施します。
大隊は9月8日に第35軍より命を受け、ミンダナオ島ザンボアンガの守備に就くことになっていました。中南部フィリピンの防衛体制強化の為に新設兵団、既存兵団の配置を変更し重点地区に戦力を集中させる動きの一環です。そのうちの一つであるサンボアンガの守備は独立混成第54旅団が配置されており、大隊はその増加戦力して54旅団の指揮下に入ることになりました。
364大隊のみ別行動となった理由としては、セブに集結中の第55旅団のうち先着した唯一の歩兵大隊であり、軍が動かしやすい位置にいたことが考えられます。

ただ、上記のように9月12日の空襲で大損害を受けた大隊は部隊再整理の為にすぐに動ける状況ではなく、またザンボアンガへの配船手配もすぐに進まず、10月2日に独立混成第55旅団が守備位置のホロ島に出発するのをセブにて見送ることになりました。




3.レイテ島への派遣と死闘

10月20日、レイテ島へ連合軍が上陸を開始しました。レイテ島への増援の為、10月22日にセブ島で待機していた独立歩兵第364大隊にもレイテ島進出の命令が出され、10月25日に機帆船3隻に分乗してセブを出港しました。
軍が10月24日に策定した「ドラッグ会戦」(レイテ島東部に戦力を集中しての決戦作戦)の中に「第102師団は4個大隊基幹」とありますが、このうち1個大隊が364大隊となっており、セブを出港した時点で第102師団の指揮下に入りドラッグの決戦に参加する事が決定されています。
オルモックまでの海路の詳細は不明ですが、証言によると途中で魚雷艇の攻撃を受け(10月27日)、3隻のうち2隻が撃沈されて無事に到着したのは機帆船1隻のみと伝わります。

10月30日にオルモックに集結した364大隊は、第1師団のオルモック上陸(11月1日)の援護を実施しています。また、この日、坪川大隊長の後任として野尻興大尉が着任しています。
坪川大隊長については、セブ空襲で受傷したため大隊の指揮から離れていたという説と、オルモックへの途上で撃沈された機帆船上で戦死した説の2説があり、私はまだ確定情報を持っていません。ただ、このタイミングで野尻大隊長が大隊の指揮をとったことは証言により確認されています。


その後、11月3日、レイテ南部に米軍が進出した情報を受けて、オルモック付近(11月4日時点でイピルに集結)で動ける数少ない歩兵部隊であった364大隊に南下防衛の命が下ります。
オルモック南方のバイバイに向けて第364大隊の1個中隊を派遣する事になりますが、11月2日時点で米第7師団はバイバイに到着しており、北上の準備を進めています。

第364大隊はオルモック上陸時に損害を出しており、派遣1個中隊は大隊が動かせた主力中隊だった可能性が高いです。また、「レイテ戦記」には日本軍約300という記載があり、1個中隊に機関銃小隊等を増強した可能性もあります。

11月11日に南下していた第364大隊は、バイバイの北にあるアルベラ付近にて米軍と遭遇し大損害を出しました。
「比島作戦記録」「レイテ戦記」には11月10日頃交戦とありますが、生還者証言によると11月11日アルベラ南方にて米軍と遭遇したと思われます。
ただ、364大隊派遣中隊は後退しつつも米軍を拘束し続け、日本第26師団が駆け付けるまで米第7師団の進撃を停滞させました。

「レイテ戦記」では、「ダムラアンの戦い」第26師団の奮戦が詳細に書かれていますが、この中では殆ど第364大隊については述べられていません。
しかし、「ダムラアンの戦い」には第364大隊の中隊も参加していました。「血染めの竹やぶ」と呼ばれる激戦が記載されていますが、第364大隊にてもアルベラの竹やぶにおける戦闘で受傷し後退した方の証言があり、この戦いに参加していたことは間違いありません。
ただ、この方が後退された後については明確な記録がなく、ダムラアンの戦いの後の大隊の動きははっきり分からなくなります


11月18日、第102師団司令部がオルモックに上陸、第102師団長福榮中将はオルモックに駐留していた第364大隊の2個中隊を率いてカリガラ峠に向かい、第1師団と連絡しました。

大隊の編成詳細は不明ですが、編成表と兄弟大隊である第363大隊の編成を考えると、歩兵4個中隊、機関銃1個中隊(銃砲隊と呼ばれていました)、作業隊にて編成されていたと思われます。
うち、オルモック上陸時の消耗、アルベラに1個中隊派遣を考えると、大隊長の指揮下には2個中隊程度しか残っていなかったという推測は成り立ちます。

第102師団は第1師団が死闘を繰り広げていたリモン峠の南東にあるピナ山の防衛に就くことになりました。364大隊もピナ山の守備部隊の一つとして戦線加入しましたが、ピナ山北方にある716高地(第102師団の独立歩兵第171大隊が守備)が米第1騎兵師団に占領された為、11月29日に364大隊は野尻大隊長が直接指揮する1個中隊にて716高地を攻撃してこれを奪還、歩兵第41連隊守備線との連絡も確保しました。
しかし、12月1日から米軍の反撃が始まり、12月3日には野尻大隊長も戦死します(12月1日説有)。

12月12日にはオルモックが陥落し、日本軍の後方線は寸断されました。
リモン峠の第1師団の戦線も破断界を迎えて第1師団も撤退を開始しました。12月19日、第102師団はマタコブ南方への転進を命じられますが、この撤退時の第一梯団左縦隊に独立歩兵第364大隊の名前が確認できます。
しかし、23日撤退を開始した際には後方のリオンガオ付近は米第77師団が進出しており、師団は体制を立て直して公道を突破、包囲した米軍と小規模戦闘を繰り広げながら当初目標のマタコブではなく、カンギポット山北方へ撤退しました。12月31日頃にはレイテ西岸の海岸線に到達しています。


レイテ島における独立歩兵第364大隊の消息はこの撤退作戦が最後の記録となります。
1945年1月5日の福榮師団長のセブへの無断撤退に364大隊は同行しておらず、大隊長を失い編成維持も困難となった大隊は、レイテに残留した参謀である金子長雄大佐の集成大隊に編入されたものと思われます。
部隊略歴には「1945年6月30日、カンギポット山付近にて玉砕」とあります。その最後がどのようなものだったか、記録は見つかっておりません。



~主要参考文献~

「戦史叢書 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦」 /朝雲新聞社/1970年
「レイテ戦記(中)(下)」 /大岡昇平著/中央公論社/1974年
「敗残の記」 /藤岡明義/創林社/1979年
「ホロ島戦記 独立混成第五十五旅団砲兵隊第二中隊の手記」 /奥村達三/1980年
「戦時輸送船団史」 /駒宮真七郎/協同出版社/1987年
「戦時船舶史」 /駒宮真七郎/1991年
「丸別冊 大いなる戦場」 /潮書房/1991年
「運命の岐路 玉砕のホロ島は獰猛なモロ族の棲む南海の孤島であった」 /井上武男/近代文藝社/1993年
「復刊曙光新聞」 /彩流社/1993年
「九死一生」 /元独立歩兵第三六五大隊(ホロ島)/2002年

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120987300、第14方面軍編制人員表 南方「比島」(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122500400、南方.朝鮮(南鮮)方面 陸上部隊略歴(航空.船舶部隊を除く) 第5回追録(防衛省防衛研究所)」

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南九州の高射砲大隊

連休でもあるし、久しぶりに何かブログを書こうと思いたちました。
部隊史を軽く混ぜつつ、またまた高射砲のお話です。
あまり注目される事がない、南九州の防空部隊の話を少し書いてみます。



本土決戦。

太平洋戦争に興味を持たれた方ならご存じだと思いますが、日本本土に連合軍を迎え撃つ最後の戦い。その前に終戦を迎えた為、発動されることが無かった決戦です。
ではどのような作戦が考えられていたかというと、

(1)連合軍の上陸船団が近づいてきたら、陸海の特攻部隊が上陸船団を攻撃して上陸前に戦力を削る。
(2)連合軍の上陸については、海岸線に展開した沿岸配備師団(旅団)が上陸部隊をくぎ付けにする。
(3)内陸部に温存された機動打撃師団が上陸部隊を痛撃し海に叩き落す。

大雑把に整理するとこのような作戦を考えていました。

本土決戦はあらゆる部隊が投入されることになっていましたが、特に第一上陸予想地点であった南九州は、他の方面に比べてより作戦色が強い編成・配備になっていました。
それは南九州防衛の為に編成された第57軍隷下の高射第4師団も同様でした。


九州の防空は1945年5月の配備変更に伴い、北九州を北九州高射部隊が、南九州を高射第4師団が担当していました。
北九州高射部隊には陣地固定型の重高射砲が重点的に配備されており、照空燈も多数持っていました。若松地区には阻塞気球も配備されています。これは北九州の工業地区を叩きに来る戦略爆撃機に対応する為の編成です。

一方、南九州の高射第4師団は野戦高射砲や高射機関砲が装備の中心でした。
南九州には多数の航空基地が整備されており、沖縄周辺に特攻攻撃をかける為の前線基地として機能していました。連合軍側としては沖縄の安全を図る為に南九州の航空基地を潰す必要があります。
結果、南九州の空襲は、機動部隊の艦上機や沖縄を出撃した攻撃機による飛行場攻撃が中心となりました。

特に1945年6月以降は、沖縄本島や伊江島の航空基地の整備が進むと共に、沖縄地上戦が終息した為、それまで近接航空支援が任務の中心だった在沖縄航空部隊が南九州への攻撃にシフトします。
来襲したのは、米海兵隊のF4Uや米陸軍航空隊のB24、P47です。7月下旬には他方面に展開してた飛行隊も沖縄に集結を開始し、稼働機数も増加しています。

そして、沖縄の地上戦が終了したということは次の戦場は南九州になるという認識を各防空部隊は持っていました。
連合軍側の空襲を防ぎつつ、秋頃と想定される連合軍の南九州上陸に各防空部隊は対応準備を進めていきます。

※北九州高射砲隊と、今回は記述していませんが、博多高射砲隊、久留米師管区高射砲隊、熊本師管区高射砲隊は、編成上は高射第4師団の隷下となります。


南九州に展開していた高射第4師団は以下のような配備を取っていました。

高射砲第136連隊
 都城、新田原、宮崎各所(橋梁防空)
高射砲第131連隊第1大隊
 鹿児島市、大淀川(橋梁防空)
独立高射砲第43大隊
 久留米(?)
 ※南九州配備ではないのに高4師直轄にいる理由は要調査。
野戦高射砲第98大隊
 知覧、万世
機関砲第21大隊
 都城
独立高射砲第55、56中隊
 都城
独立機関砲第12、26、27、31、32、33中隊
 都城、新田原

※高射第4師団隷下部隊の他に、飛行第6師団直轄の高射機関砲隊が南九州の各基地に展開していました。

1つずつ追いかけるのは大変なので、今回は上記のうちから「野戦高射砲第98大隊」を取り上げます。



野戦高射砲第98大隊

通称号:彗12469
編成年月日:1944年10月14日編成下令
編成地:舞鶴
終戦時の上級部隊:高射第4師団(第57軍)
部隊長:高瀬源治少佐


昭和19年第2次要地高射砲諸部隊臨時編成(軍令陸甲137号)にて編成。同時に編成された野戦高射砲大隊5個の1つで、シンガポールに派遣された第94大隊以外は内地の防空任務に就きました。
大隊は3個中隊編成、八八式七糎野戦高射砲㊕を各中隊6門装備し、大隊合計で18門編成となります。

大隊は編成後、南九州の防空警備を命じられ、鹿児島の知覧基地、万世基地の防空任務に就きました。
大隊本部、第1中隊、第2中隊が知覧基地に、第3中隊が万世基地に展開しています。


知覧基地からは特攻隊(振武隊)や義烈空挺隊が沖縄に出撃しましたが、1945年6月頃になると本土決戦に向けての航空戦力温存に方針が転換します。結果、知覧基地の航空作戦も縮小されていきました。
その状況下において高射砲第4師団の隷下各部隊には、本土決戦に際しての制空権確保、および、地上戦参加が下命されています。
その内容は以下のようなものでした。

1.航空基地の機能を維持しつつ、本土決戦への戦力機動を準備する。

2.航空基地の機能喪失後、連合軍上陸地点までの交通路を確保する。
 橋梁、交差路といった部隊機動、兵站輸送の要となる地点の防空任務です。道路防空に主眼が置かれていました。

3.連合軍上陸地点の制空任務。
 第一線すぐ後方まで進出し、上陸地点上空を直接的に制空することが命じられていました。

4.対戦車、対上陸舟艇射撃
 上陸してきた連合軍への直接射撃です。対上陸舟艇射撃は特定の一部部隊が指定されていたと伝わります。


野戦高射砲第98大隊が上記任務を遂行しようとした時、大きな2つの問題が発生します。

最初に装備火砲の問題があります。大隊の装備は野戦高射砲と名前はついていますが、砲脚をもっていない陣地固定型の高射砲でした。
通常の野戦高射砲はまず掩体を掘り下げ、掩体の中に砲を格納した上で砲脚を地面に固定することで、安定した射撃姿勢の確保するととこに、弾片、爆風を防御できるようになります。野戦高射砲はこの陣地構築と車輛機動が迅速に実施できるように、砲脚を畳んで牽引し易くするとともに砲そのものが軽く作られていました。
しかし、陣地固定型の㊕は、砲脚をもたず筒状の砲架を直接設置点に固定する方式を採用しており、陣地移動は最初から考慮されていません。理由としては船舶甲板上や都市部のコンクリート砲座に設置する事を想定していた為、移動を考慮する必要が無かった事、砲脚を省略する事で製造を容易にする事です。

しかし、終戦間際になると装備が足りなくなり、本来であれば通常の野戦高射砲が配備される野戦高射砲部隊にまで、陣地固定型の砲が支給されるような状況になっていました。
陣地固定型の八八式七糎野戦高射砲㊕が陣地転換を行った戦例としては、沖縄の独立高射砲第27大隊があります。那覇から撤退する際に、装備していた砲を沖縄南部の新陣地まで移動させました。
敵の弾雨下で実施したこの陣地移動はとにかく大変な苦労が発生したと書き残されており、移動できた砲もたった1門だけでした。この1門は玉砕前の最後の戦いにおいて米戦車に対して善戦しています。

高射第4師団でも陣地固定側の高射砲を機動する事の難しさは理解しており、大隊には高射砲の車輛搭載、車輛機動の訓練を行うように指令を出しています。野戦高射砲大隊は基本的に移動用の車輛を保持しており自前の機動が可能な事、また想定される戦場への予備陣地を構築しておく事で、高射砲の機動を少しでも早める努力がなされていました。
※野戦高射砲は射撃すると火点が特定されて曝露砲兵となる為、通常は予め複数の予備陣地を構築しておきます。


2つ目の問題は準備弾薬が僅少である事です。
この問題は他の部隊にも当てはまりますが、本土決戦に向けた準備弾薬が不足していました。連合軍上陸時には激しい空襲や艦砲射撃により前線への機動は大きな困難が予想されます。その為、事前の機動訓練とともに想定戦場に予め弾薬を蓄積しておく対応が進められていました。
しかし、高射砲弾薬は日本中で必要とされており、特に大都市圏の各防空部隊が大量に消費している事から、南九州への補給量は充分なものではありませんでした(もちろん大都市の高射砲隊も足りない状況です)。しかも、連日来襲する連合軍の空襲に対抗するための対空射撃も実施しており、重砲や速射砲のように砲も秘匿して備蓄に努めるという事も難しい状況でした。

結果、高射第4師団からは、「1日の射撃は10発まで」という厳しい命令が出されます。
高射砲の射撃は「群射」と呼ばれる射法を用いており、中隊6門が同時に同一目標に対して射撃をします。この射撃は1回5発。中隊全体で合計30発の高射砲弾を目標の進路上に発射します。三次元を機動する航空機に直撃させる事は困難な為、弾幕で包み込んで撃墜するわけです。
その為、高射砲が1門だけで射撃したり発射弾数が少なかったりすると、構成される弾幕は小さくなり撃墜率は大幅に低下します。
高射砲隊にとっては厳しい命令ですが、「いざというときは制限解除」とも加えられていた為、本土決戦時には全力射撃が行われたと推測されます。




1945年8月、南九州全域が連日のように空襲され、当初は航空基地中心に配備されていた防空諸部隊も都市部や鉄道といった空襲目標になりそうな要地に分散配置されつつありました。
第98大隊も知覧基地を守っていた第2中隊を八代防空に差し出しています。(代わりに高射砲第131連隊から1個中隊が派遣されています)。
本土決戦に備えた海岸線の防御陣地も構築が続き、野戦高射砲第98大隊が機動したであろう吹上浜の火線が作られつつあった(この火線には大隊も参加する予定でした)中、8月15日の終戦を迎えました。


大隊の復員は9月28日。誕生から一年も経たず、大隊はその歴史に幕を閉じたのです。



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高射戦記(8) 中部太平洋の高射砲隊

八八式

この写真はウィキペディアの八八式7.5cm野戦高射砲に掲載されている写真です。キャプションには「グアム島に遺棄された八八式7.5cm野戦高射砲、閉鎖機が外されている」とあり、グアムの激戦の中で遺棄された高射砲であることが分かります。
グアム島は日本軍1個師団が展開していた要衝だったので高射砲くらい配備されているとは想像できますが、「では、この高射砲で戦った部隊は何か?」となると急に難しくなります。
中部太平洋の高射砲部隊の戦いはあまり伝わっていません。今回はそれらの部隊について少し書いてみたいと思います。



1.マリアナ諸島への防空部隊出征

1941年、関特演と戦時動員が下令された。対ソ戦に備え満州国境に向けて日本陸軍の部隊が続々と送り込まれたが、高射砲第11連隊もその一つである。1939年に創設された高射砲第11連隊は満州北安に駐屯していたが、国境の孫呉防衛任務が与えられ7月4日に孫呉に到着していた。そして、孫呉到着直後の7月16日に高射砲第11連隊は3つの部隊に分割されて再編成された。

・野戦高射砲第52大隊 高射砲3個中隊
・野戦照空第3大隊 照空2個中隊
・野戦機関砲第26中隊

今回の主役はこのうち、野戦高射砲第52大隊である。


太平洋戦争開戦後、南方侵攻や南東方面への増援の為に満州駐屯部隊が次々と南方に出征する中、野戦高射砲第52大隊は移動する事もなく戦前同様の防衛任務の為に満州東部に駐屯していた。動きがあったのは1944年2月で、「ロ号演習」が下令されて大隊は中部太平洋防衛強化の為に南方派遣が命じられた。
この当時の戦況は、ギルバート諸島に続いてマーシャル諸島が失陥し、またトラックが米機動部隊の空襲を受けて壊滅する等、戦況はいよいよ厳しさを増していた。その為、次の戦場と考えられたマリアナ諸島、カロリン諸島の防衛強化が急務となっていた。
ロ号演習はそれら中部太平洋の島々に対して急速に増援を送り込む為に実施された計画であった。

南方派遣が決まった野戦高射砲第52大隊だが、大隊がまとまって派遣されたのではなく、中隊単位に分かれて各地に展開する事になった。

1.大隊本部 / 第2中隊
第6派遣隊(歩兵6個大隊、砲兵2個大隊)と共にグアム島に派遣された。
(1944年3月20日 グアム島着)

2.第1中隊
第4派遣隊(歩兵3個大隊、砲兵1個大隊)と共にヤップ島に派遣された。
(1944年4月24日 ヤップ島着)

3.第3中隊
第7派遣隊(歩兵2個大隊、砲兵1個大隊)と共にメレヨン島に派遣された。
(1944年4月12日 メレヨン島着)

中部太平洋への増援は、「派遣隊」という単位で部隊を集成して各島に派遣していた。


このうち、グアム島の本隊は遅れて4月に到着した独立野戦高射砲第45中隊(6門)を大隊に編入し2個中隊の態勢となった。大隊本部及び第2中隊は表(オロテ)半島の第一飛行場の防空任務につき、第1中隊(元独野高45中隊)は当初第二飛行場の防空を担ったが、米軍上陸前の6月下旬に表半島の大隊主力に合流している。



2.グアム島高射砲隊の戦闘

1944年7月に入り、グアム島上陸準備の為、米機動部隊が来襲した。大隊は積極的に対空戦闘を実施し多数の戦果を挙げたと伝わる。しかしながら、残弾が僅少になり対戦車戦闘の温存する為、7月18日頃には対空戦闘を中止している。

7月21日、米軍はグアム島に上陸した。橋頭保を確保した米軍は進撃を開始し表半島の首部占領した。半島の根元を抑えられたことにより表半島守備隊は孤立する事となった。半島にいた日本軍守備隊は、歩兵第38連隊第2大隊、野戦高射砲第52大隊、海軍部隊等の約2500名である。
表半島は海岸線は断崖になっており、窪地に構築した陣地は空襲や艦砲射撃へ強靭な防御力を発揮し、米軍上陸までの損害は軽微なものに抑えられていた。戦力が維持できているうちに米軍陣地を突破し守備隊主力と合流するため、7月25日に第一次総攻撃が実施された。
しかしながら、この攻撃は米軍に察知されており、夜襲に対して激しい砲撃で迎え撃った為、攻撃は失敗した。大隊はこの攻撃で約半数の将兵を失っている。

翌7月26日、戦車を先頭にした米軍(第3海兵師団、および、第77歩兵師団の砲兵3個大隊)が表半島制圧の為攻撃を開始した。残存守備隊はマングローブの湿地帯という天然障壁と上陸前に構築していた幾つかのトーチカ陣地、それに対戦車地雷による肉薄攻撃をもって抵抗したが、多数の死傷者を出して守備隊の戦力も限界に達した。この日、大隊長の石井中佐も戦死している。
米軍側の記録では、この方面には高射砲用の掩体が4つあり、そのうち2つに高射砲が配置されていたとある。

7月27日未明、表半島の残存陸海軍将兵は最後の総攻撃を敢行し玉砕した。
部隊として壊滅した第52大隊だが、生存した将兵はその後も遊撃戦を展開した。終戦後収容された生還者は10名と伝わる。



3.ヤップ島の第1中隊

第1中隊は1944年4月24日にヤップ島に到着した。釜山を出港してから実に48日目の到着である。
中隊は4門編成で、ヤップ島上陸後は港湾近くの高台に陣地を構築し港湾援護の任務に就いた。5月にはコロニー小学校の校庭に陣地を移転し、ヤップ島第一飛行場(ウルル飛行場)の対空援護任務に変更された。

6月22日、B24による空襲を受ける。空襲警報の発令が遅れて奇襲を受ける形となり、飛行場に展開している零戦は空襲で次々と炎上した(今、ヤップ島でみられる飛行機の残骸はこの時の空襲のものだという)。第1中隊は反撃したが撃墜破の戦果を挙げることができなかった。
翌6月23日の空襲では、前日の戦訓を生かした防空戦を展開し、撃破2機の初戦果を挙げている。

6月29日、ヤップ島の守備隊に大きな改編が行われた。
島に駐留する第4派遣隊を中心に「独立混成第49旅団」が編成され、野戦高射砲第52大隊第1中隊は「独立混成第49旅団高射砲隊」と改称された。


連日の空襲を受けるヤップ島だったが、7月に入るとパラオから零戦隊の増援が到着し、海軍高角砲と共に活発な防空戦が展開されるようになった。
7月一杯はアドミラルティ諸島から来襲するB24等の大型機中心の空襲で、通算で撃墜1、撃破10の戦果を挙げている。
※7月下旬には米機動部隊来襲の恐れありとして、来援した航空隊はパラオに撤収している。


7月25日、米艦載機が来襲し、第1中隊も信管射撃(2秒または3秒に信管を設定し直接照準を行う射撃砲)にて迎え撃ったが、照準の精度が低く戦果無し。
その後も連日のように米艦載機の空襲を受け、中隊は多数の死傷者を出した。米艦載機に対しては撃墜破6機の戦果を挙げているが、それまでの防空戦闘で高射砲弾を多数射耗し、防空戦闘に制限がかけられるようになった。

マリアナ諸島が失陥した後、ヤップ島は孤立状態となった。連合軍も9月に再度機動部隊による空襲を実施したが、その後は断続的な空襲に落ち着く形となった。しかしながら連日の空襲による損害は徐々に積み重なり、9月の空襲時は高射砲1門が直撃を受けて使用不可能となっている。
9月以降空襲が落ち着いたところで中隊も自活用の農耕を開始した。この時期には栄養給与は乏しくなっており、栄養失調の兵が目立ち始めていた。孤立した状況では主食はサツマイモとなり、副食も自ら採集した魚介や昆虫を食す状況だった。

1945年になっての特記事項は3月11日に決行された梓特別攻撃隊のウルシー攻撃支援である。
中隊は健常者を第一飛行場整備に派遣し攻撃隊の着陸に備えている。第一飛行場にはウルシー攻撃隊が3機着陸した(うち1機は不時着)。着陸機のうち飛行可能だった1機に他の機体の搭乗員が乗り込み無事に日本本土に帰還している。

1945年10月13日、復員船「響」がヤップ島に到着し、損害の多かった中隊は島の復員第一陣として日本本土に復員した。



3.メレヨン島の第3中隊

1944年4月12日、第3中隊は松江丸により輸送されメレヨン島に上陸した。サイパン島にて船団を組んだ新玉丸と木津丸は遭難し、1隻のみ到着するという惨状であった。
メレヨン島到着後に派遣された各隊は「独立混成第50旅団」に編成されることとなり、第3中隊も「独立混成第50旅団高射砲隊」と改称した。
メレヨン島は既に連合軍の連日の空襲に晒される状況であり、中隊も上陸後すぐに飛行場付近に陣地を構築し防空戦闘を実施している。
4月19日、B24の爆撃により島の埠頭に集積されていた燃料が引火し周辺に集積されていた上陸部隊の糧秣が全焼した。これがこの後のメレヨン島の飢餓地獄の発端となる。

中隊はメレヨンのうち飛行場のあるフララップ島の南、バリアウ島に高射砲陣地を構築し、飛行場の援護を行っていた。
1944年6月以降は潜水艦による少量の補給以外は完全に連絡が途絶し、耕作地の少ない珊瑚礁の島に展開していた1個旅団もの兵力は深刻な食糧難に陥った。

終戦までの撃墜破数は27機。半数以上の将兵を戦病死により失って、中隊は終戦を迎えた。



終わりに

中部太平洋の各部隊には概ね高射砲隊が付属しています。今回はその中で母隊が同じである3部隊について記載しました。
概要をざっと並べただけなので具体的な戦いについての記載はほぼ割愛していますが、各隊とも孤立した状況の中、防空戦闘に奮戦しています。
他の島の高射砲部隊と共に、いつか南洋諸島の高射砲について整理できればと思います。

オルモック防衛戦(2) 日本軍各部隊の動向

1944年12月8日。

米第77師団のイピル附近への上陸は、レイテ島の第35軍、及び上位司令部に当たる第14方面軍に衝撃を与えた。
米軍の目的はオルモック攻略であり、オルモックを抑える事で日本軍の指揮命令系統と後方補給線を寸断するという意図は明白で、日本軍は早急な対応が迫られた。

日本軍の防衛に向けた動きを記述する前に、オルモック周辺に展開する日本軍の概況を以下解説する。



1.第35軍司令部

日本軍はブラウエン飛行場攻略を目指す「和号作戦」を実施中で、ブラウエン方面に軍主力を指向する態勢を執っていた。
リモン峠で死闘を続ける第1師団第102師団以外の諸兵団をブラウエンに投入する作戦で、鈴木軍司令官も陣頭指揮を執るべく、ブラウエン飛行場に向かっていた。

尚、第35軍司令部は、和号作戦の指揮を執るにあたり、司令部組織を2つに分けている。
軍司令官は数人の参謀や司令部要員と共にブラウエンに向かい、軍参謀長はオルモックに残留して軍司令官不在の司令部の代行指揮を執った。
米軍がイピルに上陸した時に軍司令官がオルモックを不在にしていた事は、この後のオルモック防衛戦に少なからぬ影響を与える事になる。

12月6日
第16師団の歩兵第9連隊、歩兵第20連隊の残存兵力を中心とした約600名(「戦記 我らかく戦えり」より。戦史叢書「捷号陸軍作戦(1)」には約1300名とある)がブラウエン北飛行場に突入し、駐留していた米軍の飛行場関連部隊を撃破した。
駐機されていた米軍の観測機、対空陣地や燃料倉庫を焼き払い一時的に飛行場を占領したが、徐々に周辺の米軍守備隊(米第11空挺師団隷下の各大隊)が集まって反撃が開始された。

混戦が続く中、夕刻に第2挺進団による空挺降下が実施された。挺進第3連隊挺進第4連隊がブラウエン南北飛行場とサンパブロ飛行場に落下傘降下し、米軍の飛行場部隊を蹴散らして駐機、設備に火を放ち、米軍の混乱を助長させた。
ここまでは日本側優勢の状況だったが予定されていた軍主力が後続として突入してこなかった為、夜に入ると第16師団は飛行場を撤退し、飛行場北方に布陣した。

夜半、到着が遅延していた第26師団の尖兵隊である重松大隊(独立歩兵第13連隊第3大隊)がブラウエンに到着し、数組の斬り込み隊をもって飛行場を攻撃した。
※半月に及ぶ山中行軍で部隊が疲労しており、大隊としての戦闘態勢を整える事が出来なかった為と思われる。

12月7日
ブラウエン攻略を支援する為、第4航空軍が襲撃機を出撃させたが、この編隊がオルモック沖の米上陸船団を発見する事となった。
この情報はブラウエンに向かっていた第35軍司令部に伝達される事になったが、情報に接したのはブラウエンとイピル南方のアルブエラとの中間地点にあたるルビという集落であり、オルモックに戻るにしても数日掛かる位置に前進していた。結果、上陸してくる米軍にどう対応するかの判断に迫られることになった



2.第16師団、第2挺進団

「和号作戦」発動により、12月6日にブラウエン北飛行場(ブリ飛行場)に突入したのは、第35軍司令部の項で記載した通り。
12月7日になり、降下してきた第2挺進団、重松大隊と連絡が付いた第16師団は、飛行場奪還の為に攻撃を開始した米軍を迎え撃った。飛行場北方の森林内に後退した日本軍は、森林内に構築されていた飛行機掩体を利用して陣地工事を行い防衛準備を整えた。
米軍は戦車を先頭に日本軍を北、東、南の三方から包囲態勢を執りつつ攻撃を実施した。日本側は損害を出しながらも、飛行場北方陣地を確保し続けた。これは、第2挺進団本隊(司令部他)がブラウエン飛行場に追及降下する予定だった為、降下点として飛行場を確保する必要があった為だが、予定されていた第2挺進団後続部隊も第26師団本隊もブラウエン飛行場には現れなかった
この後、第16師団は12月10日までブラウエン北飛行場で激戦を続けることになる。



3.第26師団

第26師団は「和号作戦」時に大きく4つの集団に分かれていた。

今堀支隊
支隊長 今堀銕作大佐(独立歩兵第12連隊長)
独立歩兵第12連隊の2個大隊(第1、第3大隊)
第26師団の先遣隊としてレイテ島に上陸。第一師団の右翼を守る形でハロ西方高地(※タクロバン西部のレイテ中央部に抜ける隘路)を防衛していた。
ハロには米軍の重砲が進出しており、オルモックの市街を射程に収めていた。今堀支隊はこの米重砲部隊の妨害任務も与えられており、斬り込み隊を編成して重砲陣地を脅かしていた。
12月5日、リモン峠の第1師団の状況が悪化した為、今堀支隊は1個中隊(第3中隊)を残置させ、支隊主力は第1師団救援の為、転進を命じられた。しかし、イピルへの米軍上陸の報を受け、米軍を迎え撃つ為に急遽作戦目標を変更されることになる。

斎藤支隊
支隊長 斎藤二郎大佐(独立歩兵第13連隊長)
独立歩兵第11連隊第2大隊、独立歩兵第13連隊第1大隊
レイテ南部に展開した米第7師団を迎撃する為に展開した支隊。当初は4個大隊だったが、和号作戦の為に2個大隊は師団本隊に帰還し、2個大隊で1個師団を抑える役目を与えられた。
カモテス湾岸を北上する形で巧みな遅滞戦術を繰り広げ、12月7日時点では、パラナス川北方のタブガス附近で阻止戦闘を実施していた。この位置は、米第77師団が上陸したイピル南方から10キロ以上も南に位置する場所である。

師団本隊
師団長山県栗花生中将直率
独立歩兵第12連隊第2大隊
独立歩兵第13連隊第2、第3大隊
歩兵第77連隊第3大隊(第30師団所属)

ブラウエンを攻撃する為に師団長自ら率いた兵団主力だが、歩兵4個大隊(うち1個大隊は30師団の大隊)しか指揮下にはいなかった。
このような状況になった理由として、以下3点が挙げられる。
1.ブラウエンに向かう山岳地帯は交通路が整備されておらず、重装備の搬送が困難だった。
2.他方面の防御戦闘の為、前述の今堀支隊、斎藤支隊を分派せざるを得なかった。
3.上陸時の空襲により重装備の過半を失った。特に装備車両の被害は大きく、師団野戦病院や兵器勤務隊の車両を輸送任務に使わざるを得ない状況だった。
結果、徒歩行軍の歩兵中心の編成となっている。進軍は遅々として進まず、第16師団のブラウエン攻撃には先遣隊として前進していた独立歩兵第13連隊第3大隊のみが辛うじて間に合っただけで、師団本体は攻撃発起点に到達すらしていなかった。

後方諸部隊
統一指揮 馬場喜重大佐(独立野砲兵第11連隊長)
独立野砲兵第11連隊(1個大隊?)
輜重兵第26連隊
師団野戦病院
師団兵器勤務隊

イピル南方のタリサヤン地区に展開し、第26師団の後方支援任務(兵站物資の管理、野戦病院の設営等)を実施していた。
米第7師団を防御していた斎藤支隊、ブラウエンに向かった師団本体とオルモックの軍司令部を結ぶ結節点の役割を果たしていたが、イピル周辺に米軍が上陸した事により後方を遮断される形となった。
イピル附近にも輜重兵連隊や野戦病院の一部を置いて、師団上陸時に揚陸した物資の管理を行っていたが、これらの部隊は12月7日の米第77師団上陸時に壊滅している。
この集団(特に集団の名前はない。戦史叢書にはタリサヤン地区隊とあるが、他の文献では確認できない)については情報が少なく、正式な編成や所属部隊は不明な点が多い。

オルモック配置図19441208朝



4.オルモック防衛隊

オルモック防衛司令部(長:尚船舶隊長 三井一治大佐)は12月1日にオルモック周辺の防衛計画を立案し、各部隊へ通達を行なっている。
防衛計画はオルモック周辺を4地区に分け所在部隊に守備する区処を定めたもので、その後の編入、移動部隊の動きを考慮した12月7日時点の守備隊編成は以下となる。

遊撃隊(長:第15揚陸隊長 松井少佐
オルモック西方地区の海岸線後方のヤシ林に展開し、敵上陸部隊の側面を突く任務を与えられていた。
第15揚陸隊、機関砲1中隊、高射砲1中隊、野砲1門

イピル地区隊(長: 船舶工兵第21連隊長 濱園忠夫少佐
イピル海岸線の警備と上陸軍の撃破任務 ※(1)で記述した米軍上陸時に最初に戦闘を行なった部隊
船舶工兵第21連隊、海軍竹谷部隊、特設第63機関砲隊、特設第65機関砲隊、特設第70機関砲隊、独立野砲兵第11連隊第2中隊(1門欠),独立臼砲第21大隊第2中隊

予備隊
編成上存在しているが詳細不明。オルモック市街地に展開し、第1師団の後方連絡線の確保と必要に応じて斬込隊の編成が命じられていた。
第15揚陸隊(※遊撃隊に編入されているが予備隊にも記載有。本隊とは別行動の一部要員が予備隊となったと思われる)、輜重兵第26連隊(本部、1個中隊)、独立野砲兵第11連隊の一部、野戦重砲兵第22連隊第2中隊(装備は海没しており、押収野砲4門を代替装備)
青木小隊、浜口小隊、澤田隊第2小隊(※これらの部隊の詳細は不明。前線各部隊の残留、隊貨管理要員を集成したものと思われる)

防空隊(長:野戦高射砲第76大隊長 米満大尉
野戦高射砲第76大隊(本部、第2中隊)※第1中隊は輸送時に海没、第3中隊はネグロス島配備)



5.その他、周辺日本軍部隊

歩兵第77連隊第5中隊、第2機関銃中隊
歩兵第77連隊本隊はレイテ島西岸のパロンポンに上陸したが、第2大隊の一部だけは、米軍が上陸する直前のオルモックに到着している(※1)。
レイテ到着後、この部隊はオルモック防衛隊に編入された。

尚錬成隊(長:赤羽正一少佐
軍副官の赤羽少佐を長とするバレンシア飛行場に展開していた部隊(戦史叢書より)。
詳細は不明だが、オルモック北方で退院した将兵や第16師団の後方残置兵を再編して前線に送る活動があり、この部隊がその任務を担っていたと推測される。

機動砲兵第2連隊第3中隊(長:小形大尉
1944年11月3日以降にレイテ島増援部隊の一つとして派遣された。九〇式機動野砲4門を装備していたがレイテ輸送中に海没し、装備砲は全門喪失している。
アルブエラ附近に配置されており、独立野砲兵第11連隊長の指揮下に入った。

第102師団砲兵隊の一部
第102師団主力はピナ山方面で米軍を迎撃しているが、砲兵隊の一部(1個中隊)がアルブエラ地区に展開していた。
装備は押収野砲3門となっており、独立野砲兵第11連隊長の指揮下に入っている。

独立工兵第65大隊
幾つかの戦史において「第35軍工兵隊」と呼ばれている部隊と思われる(※2)。一部をルソンに残置させているが、本隊は11月4日に「せれべす丸」「靑木丸(※3)」に乗船しレイテ島に展開している。オルモックに本部、アルブエラに第3中隊が駐屯し、陣地構築に従事していた。


オルモックに展開していた日本軍は凡そ上記のような部隊となる。上記の他に軍憲兵隊(オルモックには1分隊が占領期間中駐留していた)や兵站部隊の分遣隊がオルモック市街での任務の為に駐留していた。
自動車各隊は動きがはっきりしない事(配置についていた東海岸及びブラウエン基地で大きな損害が出ている事は確実だが、それを明示する資料が無い為)から、本記述では省略する。
また、イピル地区およびオルモック市内に展開していた衛生各隊については別章で解説する。

次回は、1944年12月8日~10日のオルモックへの米軍各隊の進撃状況と、各隊(特に米軍阻止前面に立った今堀支隊)の阻止戦闘についてを解説する。



※1.
先行して上陸し第26師団の指揮下で和号作戦に参加していた第3大隊の残余中隊が上陸したという説がある(第2大隊説は「戦史叢書」、第3大隊説は「レイテ戦記」)。


※2.
1944年9月20日に発令された「尚作命甲第30号」において、第102師団工兵隊第2中隊を第35軍直属にすると命じられているが、該当部隊はミンダナオ島に展開しており、レイテ島の軍工兵隊と称するには無理がある。ただ、該当部隊はミンダナオ島北部に集結しており、そこから30師団の輸送部隊に同乗する形でレイテ島に上陸している可能性は否定できない。


※3.
独立工兵第65大隊は多号第3次第2船団で輸送されているが、該当船団に「靑木丸」は存在しない(フィリピン海域で活動していた輸送船ではある)。「靑木丸」に乗船したと言われている1個中隊は、前後の状況から恐らく多号第4次第6船団の「金華丸」に乗船していたものと推測される。

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